林太郎です

北九州ブログの皆さん、こんにちは。
鍛冶町の森 林太郎です。
昨年末までは暖冬だなんて騒がれていましたけど、さすがに
如月に入ると寒さも堪えるようになりましたね。
私の生まれ故郷、山陰の小京都と呼ばれている津和野もそれは
寒さが厳しいところでしたけど、赴任してきたこの街も
九州というのに随分寒いものだなと思いました。
何しろ玄界灘の海風が厳しいですね。
それと、津和野と同じように城下の真ん中を流れる紫川からの寒気、
これも寒さの一因かもしれません。津和野は山の寒さ、
小倉は海の寒さ、でしょうか。
それにしても、小倉くんだり(失礼)まで追いやられるとは
思っても見ませんでしたね。
代々私の家は慶安年間から津和野藩主の亀井の殿様の御典医をつとめる家柄だったのですが、14代目の私の時代に激動の明治を迎え、廃藩置県やら何やらで津和野の住まいも売り払って東京に上りました。代々の家業の影響でしょうか10歳のころから、医学に必要なドイツ語の勉強を始めたのですが、耳が良かったのかドイツ人学者にドイツ語でディベイトして勝ったこともあるのですよ。
学校は今で言う東大の医学部に二歳年をゴマカシテ入学しました。だから卒業は二十歳前だったのです(何でも卒業最年少記録だそうです)。まぁ頭脳の良し悪しは遺伝の占める要素が大半ですから、さほどの自慢でもありません。
学校を卒業した後は東京陸軍病院に勤務です。二十二歳の時にドイツ留学を命ぜられまして、5年間ベルリンにいました。欧州も寒いのですが、ドイツの人達は小雪が舞っても「おやっ、きょうは涼しいですな」くらいのものです。寒さ慣れしているのですね。お恥ずかしい限りですが、帰国後エリーゼ嬢に追いかけて来られたのは拙著“舞姫”の原案になりましたので、皆さまもご承知の通りです。林太郎もただの男だな、と言う広いお心でご理解ください。
東京、大阪と並んで都督部があったこの街、小倉とのご縁は明治32年私が38歳のときに始まったのですが、近衛師団の軍医部長兼医学校長から突然この小倉の第十二師団軍医部長に左遷させられたのは、今にして思えば私の論争癖も原因かもしれませんね。でもこの街での足掛け4年間の生活経験が、私のそれからの人生をより豊かにしてくれたと思っております。

鍛冶町の借家(当時は馬小屋と別当の部屋も在ったのですが、繁華街になって土地代も高騰したのでしょう。それまで保存してくれるゆとりは無かったようですね)を下見に行ったり、馬に跨って紫川の橋を渡り師団の軍医部に通ったのは、駆け足だった今までの人生を振り返る良いタイムラグでした。なんでも毎日私が渡った橋は鴎外橋と命名していただいたそうで、小倉の皆様に感謝しております。私の小倉時代をもっとお知りになりたい方は“小倉日記”をご覧ください。


41歳のときに東京に転勤となりまして、その後日露戦争に従軍しました。当時の強力な兵器といえば、今小倉城に演示してある、この程度ですが、今では遥か朝鮮半島から日本海越しに鉄砲丼(テポドン)とか野丼(ノドン)とか言う大砲の弾を大きくしたような特殊兵器が直接飛んでくるような話を聞きました。
九十年近くも経つと戦争も大規模になるものですね。
帰国後は軍人としての己と文人としての己を厳格に棲み分けながら、文学活動にも
精を出していたのですが、48歳で文学博士号を頂戴しました。
平成の世の中でも、医者と物書きの兼業は多いと仄聞しています。
その後は順調に階段を登って、陸軍軍医中将、軍医総監、陸軍省医務局長を拝命し
54歳で退官させていただきました。
退官後は“高瀬舟”を始め意欲的に執筆に努めたのですが、
医者の不養生とはよく言ったものです。
腎臓を悪くした上に肺結核まで患って、
61歳であちらの世界に旅発たせていただきました。
特に現世に未練は無かったのですが、私の最期の我侭で
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言させていただきました。
▼森鴎外の遺言書/鴎外の死の三日前、友人 賀古鶴所氏に口述筆記してもらう

それで私のお墓には、高等官一等とかの一切の栄誉や称号はありません。
“森林太郎墓”とだけ記されています。正岡先生みたいですかね?

最後になりましたけど、樋口一葉さんの“たけくらべ”は素晴らしい
作品でしたね。才能あふれるあのような方が僅か24歳にして
この世を去られるとは、惜しいものです。
一葉さんはもとより、与謝野晶子さん、平塚らいてうさん、
女性の方々がとても良い作品を書かれてましたね。
平成の世では女性の方々のご活躍は如何なものなのでしょうか。
2008/02/01(22:30) カテゴリ:
culture コメント(20) | トラックバック(0)
この記事に対するコメント
面白。
過去人間の紹介、面白いです。
一字違いの私です。
貴君の活躍も私たちの苦労あってこそです。

拙者は35歳で旅立ちましたが、充分世の中を楽しんで逝きました。

床の間にこんな掛け軸がありました。これ「お宝」ですか?

小倉もそこそこ街になりました。

コンクリートですけど、天主も造りました。
職場の人がこれを読んで「はやし たろう」ち誰?と聞かれました!
小倉城はこのアングルからが大きく見えますよ。

小倉北区の繁華街の中に、鴎外さんの旧居と案内板にあって、ちょっと立ち寄ればいいのに、一度も訪ねていません。
きっかけ作っていただきありがとうございます。
鍛冶町を徘徊してるときは大概酔眼でこの家には目がいかないけど、堂々とした住まいですな。
鴎外さんの小説は苦手です。特に安倍一族なんか、どっちが攻められる側かわからんです。ソウロウと名の付くものは苦手です。
おクドさんがありました。

風情のある家屋でした。

北区役所の前の安河内さんのお見せがるので鑑定団にみてもらったらいいかも。
むかしの新聞がありました。

鴎外橋の西側にこんなのがありました。

こっちの方が値が張りそうだけど・・・・・・・・。

鍛冶町の一等地ですね。

清張記念館の駐車場に移設して、ココにはマンションを建てたいです。北九州市さん検討お願いします。市民にももっと文化遺産としての建物が目に付くし、赤字財政も補填できるし、いい案だと思います。
清張さんの記念館が市役所横にあるので訪ねてください。
小倉南区の三岳護聖禅寺に行って来ました。このお寺は曹洞宗のお寺として福岡県最古です。室町時代に三岳地区の長野左衛門尉というお殿様が、国東から和尚さんを招いて開山したそうです。このお寺の三十二世、玉水和尚さんは森鴎外さんのお友達だったそうですよ。

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