清張です
鴎外先生の次に、北九州ブログでご紹介いただくのは畏れ多いのですが、同じ文学の道を歩んだものとして、そして北九州にご縁の或る者としてお許しいただければ幸いです。
さて、私の本名は鴎外先生のように立派なものではなく、清張(きよはる)です。作家になって音読みに変えただけの安易な名前です。父は鳥取県の出、母は広島県の出です。結婚した父母は、当時日露戦争の石炭景気で沸いていたこの北九州に転居してきました。
私が生まれたのは1909年の12月、企救郡板櫃村でした。今の小倉北区篠崎辺りですね。実家の家計はそれは苦しかったです。私が板櫃尋常高等小学校に入学した頃は、父の峯太郎と母タニは大八車を曳いて露天を営んでいました。やがて飲食店を開業できましたが暮らしは一向に楽にはなりませんでしたね。社会に出て働き出したのは15歳の時です。
最初は電気会社の出張所の給仕でした、この頃は芥川龍之介先生のファンでほとんど毎日読書に埋没していました。でも勤務先の出張所閉鎖でリストラです。なんだか今の北九州の経済状況に似ておかしくもありますね。次は石版印刷の見習い工、1929年の二十歳の時には仲間の赤本購読を理由に小倉刑務所に留置されたこともあるんです。人の考えまで国家権力でコントロールしようという全く酷い時代でした。
それが平成の今では、10年前に小倉北警察署の斜め前にこんな立派な私の記念館を造っていただくとは・・・・・・・・・・。時の移ろいに人の世の不思議をつくづく感じます。
私の苦しい経済状況はまだまだ続きまして、砂津の朝日新聞西部支社の広告部意匠係臨時嘱託という職に不安定ですがなんとかありつきました。意匠係りと言うのは、新聞社の社内では絵描きさんと呼ばれていて、紙面の挿絵などを描く仕事のことです。印刷屋で見習いをしていたのが役に立ったんでしょうね。正社員として採用されたのは34歳の時で、臨時嘱託と言う安定しない雇用状況が5年ほども続きました。
最近では、企業の固定経費をスリム化するために、派遣社員とか契約社員とか様々な雇用形態があるようにあの世でお聞きしていますが、いつの時代でもシワ寄せを被るのは非力な庶民。これだけは今でも変わって無いようで残念です。
朝日新聞勤務時代に書いた「西郷札」が幸運にも週刊朝日の100万人の小説に入選し、
1953年には鴎外先生の小倉日記からヒントを頂戴した「或る[小倉日記]伝」で第28回芥川賞を頂戴しました。少年の頃大きく惹き込まれた龍之介先生のお名前が冠された賞を頂戴できたのは、幸運としか申しようが無いと思っています。

その後もたくさんの作品を書かせていただきましたが、44年間過ごした北九州での生活は私の著作からは切っても切り離せないものです。
例えば、布刈神事をテーマにした推理小説。何でも布刈神社も今では“門司港レトロ地区”の観光エリアに入っていて、門司港駅には神事のブロンズもあるようにお聞きしています。
それに黒地の画。
これは、朝鮮戦争時代に小倉の城野キャンプから脱営した黒人兵士たちを著したものですが、城野、高坊、三郎丸、黒住、片野など、当時のあの辺りの一体が今でもハッキリと脳裏に刻まれています。
芥川賞受賞後に東京本社に転勤となりまして、3年後の1956年には作家活動に全力を傾注しようと朝日新聞を退職しました。13年間在職した新聞社ですが、テレビの登場、現在では強力なネット媒体の伸張で、新聞各社は苦境に立っているともお聞きしました。しかしテレビはともかくネットは文字を読むこと書く事の文化の延長ですから、人の文化が続いていく限り文字の文化は廃れることは無いと思います。
新聞社退職後は、練馬の石神井公園に居を移しました。ここは武蔵野の面影を残し、生まれ育った小倉の街のように自然豊かな土地柄だったのですが、唯一不満を言わせていただけば広大な関東平野、足立山、福知山、皿倉山、帆柱山、高塔山、そして関門海峡に囲まれた箱庭のように麗しい自然が近くになかったのは、しようが無いと言えばしようが無いのですが、寂しかったですよ。特に足立山から昇る朝日は、大自然からの代えがたい美しい贈り物で、折にふれて感激したものでした。

今こちらではこのような催しも開催されているそうです。小倉城跡の横にはソコソコの商業施設も出来ているとお聞きしています。お買い物にお出かけの折には、是非催しにもお立ち寄りください。

2008/02/16(14:17) カテゴリ:なし コメント(14) | トラックバック(0)
この記事に対するコメント
清張さんは偉大だけど、建物がもったいなさ過ぎるね。
一応数回行きました。
展示内容が乏しすぎる。
一方的展示しかされていない。
などで、ここは税金の無駄遣いです。岩下俊作とか、杉田久女とか、北九州にまつわる文学人全部を展示するべきでしょう。
松本清張の作品に普遍性が在るんですか?
苦労人がもつ倣岸さが目立った人だったそうです。この仏様に何をすがったのか?

清張さんだけは一時期はまってましたよ。他の推理小説は全く読んだこと無いです。

或る小倉日記伝に出てくる玉水和尚さんのお寺です。明治時代に三岳の梅林から小倉の町中まで出てきたらやっぱり一泊でしょうね。

推理小説ってフランス語では、le roman policier(警察の小説・刑事もの小説) とか le policier(刑事もの)と書くそうです。ほんと、そういえば、推理小説には、警察・刑事さんの存在は不可欠ですね。
勤務先の新聞社では、本社採用と現地採用に大きな差があったと何かに記されていた記憶があります。東京採用のお偉いさんが小倉に着任すると、東京採用の取り牧を引き連れて豪遊!
平成の今と一緒ですなぁ〜。
一度だけ行きました。
空間の立派さと、展示内容の乏しさが記憶にあります。少し清張さんには詰めてもらって、もう一人の松本さんの漫画展示スペースをつくったらどうかな。
清張さんの顔を見るたびに、辛子明太を思い出します。
私の祖母は戦争の時、城野で大砲の弾を磨く作業をしていたそうです。
さすがお高そうな万年筆ばかりでした。

応接室だけは私の家の勝ちみたいでしたよ。

足立山の朝日、スーパーショットですね。朝日の神々しさがすごいですね!!
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